ゲイ勤務医の雑記帳

20代終了目前で自らをゲイと認めたしがない勤務医の戯言

孤独はえらい?

自分がほかの人と違う感覚を持っているということは、小学校低学年の頃から薄々感じていたんだとは思う。

それは誰とも共有できないことなんだ、してはいけないことなんだ、ということも無意識に感じていたのかもしれない。


この「人と違う」という感覚を拒絶せず自己肯定できるように、いつしか「人と違う方が優れている」と自分へ言い聞かせるようになった。

 

男友達が少なく女友達とよくつるんでいたこと、ときにオカマと馬鹿にされたこと、好きな女性タレントがすぐ思いつかない一方で好きな男性タレントは即答できたこと、女子と付き合っても友達だったころと比較して自分の感情になんら変化がなかったこと、男の先輩のファンだったこと、、、

こと性的指向に関して「人と違う」と実感していた場面は思い返せばキリがないが、違うということをむしろいいことであると捉えることで自我を保っていた。

 

よく言えば、没個性を求められがちな義務教育期間にあって「個性」というものをプラスに捉えられる感覚を持てていたということなのかもしれない。

 

ただ、この「人と違うほうが優れている」という感覚は次第に自らに完全に染み付き、やがて性的指向など何も関係ない部分に関しても「人と違って〇〇な自分はえらい」という感覚が僕を支配するようになっていった。


この暴走しつつある感覚は、大学受験のときには大いに役にたったように思う。

いわゆる進学校ではない高校に通っていた僕は、周りの友人たちが休み時間や放課後に遊んでいるなかでひとり勉強に打ち込んでいる自分に完全に酔っていた。

みんなと違う。この感覚は自らを奮い立たせた。結果的に目指していた医学部進学を果たした。

 


しかしながら、この意識は年を経るごとに「人に合わせることなど考えず、自分のやりたいことさえ達成できればよい」という方向に変わっていったように思う。

 

気付けば自分のやりたいことはなんでもひとりで自己流にこなすような生き方になっていた。

 

土日の近場のレジャーは前日か当日に思いつきで実行するためひとり、高級レストランでの食事や海外旅行での豪遊といった贅沢もひとり。

誰かと共有することもなく全て自己完結して満足してしまうところまできていた。


さらに仕事においても、未来を見据えたキャリア形成を周囲の友人たちがすすめていくなかで、僕は自らがやりたいことがやりたいように適度にできる環境であればキャリアなど追求しないと考えて、自己流の未来像を勝手に作り上げて満足していた。


僕は、自らの幸福度は非常に高いと自負していた。ただ、この幸福のなかには常に「自分」しかいなかった。


人と違うことを求める感覚が、結果的に人との関わり合いを一切求めない独り善がりな自分を肯定し続けることにつながってしまった。


人と関わらなければ自らの性的指向とも向き合う必要はない。それでいいんだ。それが自分の生き方なんだ。そう確信していた。

 

 

ただ、ふと冷静に考えたとき、その確信の根拠は何もないことに気がつく。


むしろ、人との関わり合いにより得られることや性的指向と向き合うことで得られることを無意味に放棄しているだけなのではないか。


15年前に気付くべきだったことに、ようやくたどり着けた気がした。